牧師 西岡義行
(にしおかよしゆき)


■西岡義行
東京・八王子出身。暖かいクリスチャン家庭の中で育つが、自分を見失い荒れ果てた17歳の時、頭蓋骨陥没骨折を通して人生をやりなおす決断。高卒で東京聖書学院に入学し牧師の道を歩む 。卒業後宝塚にて3年間教会開拓に励み、その後渡米しウエスト・ロサンゼルス教会で奉仕しつつ、アズサ大学、フラー神学校で聖書や文化を学ぶ。帰国後は岡崎南、陣場高原、下山口教会を経て、2014年より当教会に遣わされる。牧師の働きの他に、東京聖書学院(教頭)、東京ミッション研究所(総主事)、などにも携わっている。妻との間に授かった三人娘の父親で、孫も生まれた。


※牧師の関係している団体のH.P.(それぞれクリックするとご覧になれます。)
東京聖書学院

東京ミッション研究所

日本宣教学会

日本ローザンヌ委員会(ローザンヌ運動)

■西岡まり子
静岡出身。牧師家庭に生まれ育つ。高校卒業後、アメリカへ留(遊)学。その後心改め、東京聖書学院で学ぶ。卒業後、夫の留学のゆえ渡米。その間生活の為にベビーシッター、清掃員、小学校の教員などをしながら、タルボット神学校で結婚・家族のカウンセリングを学ぶ。心臓病をもつ三番目の娘を通じ「いのち」への考え方 が変えられた。
帰国後、夫と共に教会の働きに携わりつつ、結婚カウンセリングプログラム「プリペアー・エンリッチ」の普及やファミリーフォーラム・ジャパンの働きに関わる。家族の大切さ、そしてその家族の中核である「夫婦」が豊かな関係を築き上げられることを願って、「結婚セミナー」「性教育」などを展開している。

「聖書から学ぶ結婚」  CGNTV 本の旅[454]

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~*~*~*~*~ 西岡義行牧師の人生・旅日誌 ~*~*~*~*~*~

◇1 人生を変えた一大発言

今から45年ほど前のことである。日本にビリー・グラハムが来日し、聖書の福音を伝える国際大会が東京で開かれた。このグラハム師は、米国のギャラップの調査によると、毎年のように「尊敬する人ベスト10」に入るほどの人で、二十世紀を代表する伝道者である。アメリカ大統領の個人的カウンセラーとしても、用いられつづけ、米国の大統領就任式でも登場するので、アメリカでは彼を知らない人はないほどである。
そんなことなど何も知らないわたしは、親が聖歌隊の一員であったので、ついて行った。わたしは、聖歌隊席横のコンクリートの段に座っていた。その夜、東京ドームになる前のあの後楽園球場に、ハレルヤ・コーラスが響き渡った。そして、長身の外国人が聖書を片手に持ち上げ、大胆に福音を語った。大勢の人々が、神の前に出て悔い改めるシーンは、今もわたしの脳裏に焼き付いている。五歳のわたしには、実際何が起きていたのか、理解できるはずもない。しかし、その時の深い感動は、その次の行動に現れたのである。それは、その次の聖日に起きた。

そのころ八王子教会は、まだ会堂を持つことが出来ないほど、小さな群れであった。十数名ほどの礼拝が、忠実屋の寮の食堂で行われていた。その寮に毎週のように通っていた一ファミリーの中に、わたしがいた。礼拝後、何を思ったか、わたしの口から、「ボク、大きくなったら日本のビリー・グラハムになる」ということばが出ていった。当時八王子教会に遣わされていた、東京聖書学院の女子寮舎監の川上栄子(現在の中居栄子)師は、この言葉を神から出たこととして、わたしをあえて前に連れていき、講壇の上からマイクを通して全員に聞こえるように言わせたのである。礼拝後の雑然としていた食堂は、一瞬沈黙した、そして前に立ったわたしの口からもう一度飛び出した。

「ボク、・・・・・・・・」

五歳の少年なら、「ボク、大きくなったら、スーパーマンになる」とか、「お嫁サンになる」、「ホームラン王になる」とかいっても、笑って済まされる程度のことであろう。しかし、牧師も教会の皆も、それを主から出たこととして取り上げ、祈りの時を持ったのである。ことの重大さも知らず、「アーメン」と言った。しかし、この出来事は、その後、わたしを苦しめることとなるのだった。

◇2 近づく死の恐怖

親の職業は子の人生の一部となるのだろう。母が家庭保育をしていたことから、常に我が家は大家族のようだった。看護師の子どもは、夜も預かることも少なくなかった。それだけではない。親戚の子が同居していた時期もあった。二階に6部屋ある大きな家に増築した中学の頃からは、下宿人も同居していた。その出会いと別れは、私の人生の一こま一こまを飾っている。
その家で最初に大きなショッキングな出来事が起きたのは、私が小学校一年生の時であった。当時の私にとって、受け止めきれないほどのものであった。毎日のように遊んでいた家庭保育の子ども、Tちゃんが、彼の自宅の家庭用洗濯機の渦に飲み込まれ、溺死したのだ。第一発見者はその子の母親だった。近くの病院までその子を抱えて連れて行ったが、亡くなった。その葬儀に参列したが、棺にしがみついて泣き崩れる姿は、私の心を今も締め付ける。

その翌年、東京聖書学院で開催されたサマーキャンプに参加した。三年生以上ということもあって、当時舎監をされていた、恩師松木牧師に泊まっての参加であった。先生の書斎に英語の本が沢山あるのを見て驚いたことが昨日のようである。そのキャンプは、楽しい思い出であり、また幼い私に小さな信仰の決断がなされた。

キャンプからの帰る途中のことだった。西武拝島線に乗り、八高線に乗り換えて八王子に向かった。ジーゼルの匂いのする二両編成の列車の一番前に立っていた私の目に飛び込んできたのは、信じられない光景だった。発進してかなりスピードが上がったとき、突然右の方から自転車らしきものが突っ込んできた。「あッ、危な~い」運転手の叫び声の次ぎの瞬間、小学生が乗る自転車を巻き込むすさまじい音がした。氷つくような恐ろしい瞬間であった。しばらく列車は走り、やっと止まった。何人かは、窓から飛び降り、現場を見に行く。少年と自転車は、おそらくこなごなになったのであろう。恐ろしくて、体が震えだした。キャンプに行った子どもたちと共に、緊張した時間が過ぎていった。その瞬間のことが私の心のどこかに焼きついてしまった。生きているって、死んでしまうとは、どんなことなのだろう。死の恐れが衝撃的な事故に伴って迫ってきた。1968年8月23日のことは、今も脳裏から離れない。

◇3 信仰の闘い

野球好きだった私は、中学生になって、憧れの野球部に入った。厳しい練習で、部員の数を減らそうとしていた。1年生部員は、日毎のように減り、気が付くと三分の一ほどが残り、あとは去っていった。中一の頃は、それでも背丈はクラスでも平均ほどあり、秋の大会が過ぎると一年生のなかでレギュラー争いに入ることが出来た。幸い、なんとかレギュラーの座を奪うことが出来た。しかし、日曜の練習があり、教会を取るか、野球をとるかといった葛藤が始まった。
その頃は、信仰がまだ守られており、回りの祈りにも支えられ、日曜練習を休んでも、レギュラーの座を保つことが出来た。問題は試合の時であった。牧師と相談した結果、早朝個人礼拝を短くもっていただいて試合に直行することになった。しかし、毎週日曜の練習を休んでいたので、次第に、毎週日曜の練習は、レギュラーを捨てるか、教会の礼拝(九時からの中高科クラスを含めて)を捨てるかを私に迫ってきた。ついに、練習を休むことでレギュラーの座を確保することが困難になっていった。そんな中、不思議なことが起きた。それは、私が二年になり、その中から次期部長を選ぶこととなった。いろいろな内輪もめなどもあり、結局私が推薦され、選ばれてしまったのである。

私は、これは導きであると思った。思いきって、引きうける条件を顧問の先生に申し上げることができた。「先生、私は日曜日に教会に行っているので、日曜の練習を午後にしてもらえるのなら、部長を引きうけます。」その通りになった。今考えると、三年後の私には想像もつかないほど、信仰的な出来事であった。
                     
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◇4 土曜学校

私の家では、信仰は特別なことではなく、生活の一部であった。毎日家庭礼拝をすることは、ちょうど食事をするように、当たり前のこととしてしつけられていた。心のご飯ということなのだ。いやに思うこともあったが、当然のこととして受け取るしかなかったし、それが自然になされていたのだ。信仰的には、まさに信仰的温室状況であったといえよう。しかも、物心つくころから、自宅において、CSがもたれており、土日は連続して聖書に親しむ生活であった。

土曜学校が、自分の家でされているので、良く友達をさそったものだった。自転車で転々としながら遊ぶルートにうまく入れていたのだ。それが自然に出来ていたのだから、今考えても不思議である。中学になると、クラブ活動が終わってから清川ジュニアクラスがもたれた。そこに来ていた友人が、妹の旦那になるとは、夢にも思わなかった。人生の出会いは、不思議なものであろう。

出会いと言えば、私の両親も、教会で出会っていて、結婚した。もし福音が日本に伝わっていなければ、私も、妹も家内も、子供たちも、そして沢山の病院、学校、家族、いやアメリカ合衆国もなかったであろう。音楽の教科書からバッハもショパンもないであろう。キリストとの出会いは、様々な出会いと喜びを広げていることにいまさらながら驚くものである。

◇5 進化論の激震

信仰は、さまざまな闘いによって守られるが、逆に恵みによって守られていると、内側から崩されていくことが多い。私の場合もそうあった。それは、日曜学校と一般の学校との対立からきていた。日本の教育では、進化論は当然のように教科書に登場してくる。そこにほとんど選択の余地はない。私の心には、不安がよぎったのである。それは、「もしかしたら、この世界が神によって造られたと、本当に信じているのは、このクラスで私一人かもしれない」と。そのことが、試練の時には、問題にはならないのに、とくに試練がないと、疑いへの一歩になっていった。

はたして、聖書あるいは日曜学校の先生が正しいのか、それとも文部省の検定が通った、公の教科書が正しいのか。両者が自分の中で対立していった。そして、聖書のなかに、信じられない奇跡があるのを見たり、その箇所からのメッセージを聴くたびに、疑いの思いが内側から涌き出てくるのを押さえることが出来ないでいた。疑いと信仰が対立するとき、いとも簡単に信仰がなえていくのである。

そういえば、エバはあのエデンの園で蛇の誘惑を受けたのであるが、外からの誘惑ではなく、内側にある確信に対して、少しだけノックした程度であった。「園にあるどの木からも取って食べるなと、本当に神が言われたのですか」。主が言われたこと、聖書に書かれていることが、「本当にそうなのか」とその心の内にある確信にひとたび触れるだけで、揺れてしまったのである。いきなり不信仰に陥れるのではなく、確信の度合いを下げることから、止める事の出来ない不信仰への歩みが始まっていたのであった。「聖書の創世記は本当のことなのだろうか?」と。

◇6 疑いから無感動、そして無関心へ

高校生になると、いよいよ疑いの思いがサタンによって自分のうちに入っていった。今まで築かれてきた信仰は、その土台から崩れていった。不思議なことに、礼拝は出ているし、聖歌隊にも入っているし、高校の聖書研究会にも入っている。さらに、信じることが出来ないことを教えている教会学校の助手もしていたのである。信じようと努力しても、信仰を努力で立てなおそうとしても、所詮むだな努力であった。

「疑い」は、あらゆることを少しずつ、確実に崩していった。聖書に感動しなくなっていた。本当に、あんな奇跡などあったのだろうか。何百歳も生きたこと、出エジプトの紅海徒渉、主イエスのなさった数々の奇跡、復活、などなど。常識の枠組みが、聖書のメッセージを締め出してしまった。そして、それに関係するいっさいの事に感動を覚えることがなくなった。教会出席は、単なる習慣のひとつとなっていった。そのことが、自分の魂にとって、み言葉がどれだけ大切なことであったかは、次第に分らなくなっていった。

◇7 高校での挫折

中学の頃の信仰は、不思議と守られ、クリスマスなどは、クラスの半分ぐらいの友だちを教会のクリスマス会に連れてくるのも、恥ずかしいとは思わなかった。むしろ、人を誘うことに何の戸惑いもなかった。しかし、少しずつ疑いが信仰を浸食していくと、ついに信仰、勉強、クラブ活動、教会生活などが、ばらばらになり、自分が分からなくなり始めていった。そのことに拍車をかける出来事が高校一年のある面接でおきた。

それは、進路を決めるための大切な面接であった。わたしが高卒で東京聖書学院に入ると述べると、担任の先生は、「宗教は年を取ってからでも遅くない。自分の人生の可能性を試してからでもいいのでは、」と優しく説得した。しかし、そう言いつつ、「この高校の名誉のためにも、あなたのためにも、最難関の大学を受験してみないか」というのである。わたしは、その瞬間は、「わたしは学校のモルモットではない」として、その勧めを拒絶した。勢いで学院に入り牧師の道を歩むとは言ったものの、その時の先生の言葉が次第に説得力を持ち始めていったのである。

考えてみれば、その時のわたしは、甲子園を目指す野球部に入っており、同時に生徒会の副会長をしていた。同じ野球部員の中に生徒会長がいたこともあって、次ぎの会長は、誰になるかある意味では決まっていたような状況があった。であるが故に、教師としても自然に力が入ったのも無理はない。しかし、あの面接以来、勉強への意欲は失われた。さらに、高校の校庭が狭かったゆえに、野球部での練習ボールで事故がおき、軟式野球に変えられ、甲子園の夢は消えてしまったのである。生徒会も、甲子園も、勉強も、信仰も、あらゆる事が一気に崩れていったのである。 

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◇8 新しい「音楽」の世界

ある日のこと、友人の家に遊びに行き、複雑な事情で悩むその友だちにとっては音楽が大きな支えであることを知った。次第に音楽を介在した様々な関係が広がっていった。生徒会などの関係とは違った新しい世界を感じた。そのうち、私が教会などでピアノの奉仕をしていることが知れて、ロックバンドへの誘いを受けた。人は挫折と見るかもしれないが、自分にとっては、新しい世界が開かれたような気がした。それまでは、言わば「良い子」と評されていたが、勉強以外のもの、特に遊ぶことに自由になっていった。

もちろん、断る理由は、忙しいという事のほかはなかった。気がつくと、三つのバンドに入っていた。学校、野球部、生徒会、聖書研究会、教会…本当に忙しくなった。さらにスタジオ代が高く、バイトをしなくてはならない。家庭教師をはじめると、何人からか依頼を受け、さらに忙しくなっていった。バンドは私の生活をその根底から変えてしまった。

疲れきっていた私には、礼拝は睡魔との闘いとなっていった。礼拝が次第に苦痛となり、み言葉が真剣に祈りをもって語られているのにもかかわらず、私の側では、心そこにあらずという、霊的には危機的状況にあった。優先順位が全く崩れてしまい、勉強も、信仰的なことも、ほとんど最後になってしまう。心が亡びること、それが「忙しい」ということだと、聞かされていても、止めることは出来なかった。それは、ちょうどコマが回っているようなものだった。忙しく回っていなければ、逆にふらふらになり、立っていられなくなる。立ち止まってじっくり自分の人生のことを考えはじめると、自分を支えきれなくなるのだ。あの幼少時の一言で、自分の人生が決められていいのだろうか。宗教は、年を取ってからでも、と言われた担任の先生の言葉が、私を揺さぶり始めていた。音楽は、自分の悩みを忘れさせてはくれた。しかし、何の答えも与えてはくれなかった。

◇9 頭蓋骨陥没骨折

高二の二学期は、文化祭などもあって、バンドを掛け持っていた私には、殺人的な忙しさであった。信仰的に命を失ったような状況であっても、木曜の祈祷会と土曜学校の多少の手伝い、そして、日曜の教会学校の助手、聖歌隊などの教会の奉仕も続けていたのだ。あらゆる係わりに忙殺されるような日々の中で、全てを投げ出したい、と思うことがあった。全てがいつ崩れてもおかしくないほどであった。そんな時だった。以前から頭痛があったのであるが、ある日突然倒れた。原因不明の頭痛は、私を悩ませたが、右側の上頭部が時として痛みに襲われる。子どもの 頃から、行くのが恐ろしいと思う場所があった。床屋さんである。それは、私の痛い部分を情け容赦なく洗うからだ。痛くないときにいくにしても、恐ろしい。普通に触っても痛いときは痛い。医者嫌いの私は、誰にも言わずにいたのである。しかし、ついに医者に行くことになった。しかし、八王子の病院では原因がわからず、脳外科の名医のいる横浜の病院に入院することとなった。

何度もCTスキャン等で頭蓋骨を検査した。その断層撮影などで、自分の姿を見た時は、これが自分かと思い、何ともいえない気分になった。確かに右上頭部が陥没しているのである。しかし、それがどうしてそうなっているのか不明である。様々な検査の結果、いくつかの可能性が浮上し、難病の可能性す らあがったらしい。痛みが来ない様に処置されたのだろうか。比較的安定している。しかし、親には、家族親戚一同を呼ぶようにという指示が下った。部屋には、脳の難病の小学生、交通事故で包帯に包まれた人、脳腫瘍で全身麻痺した人が身を横たえている。変わり果てたその人を見舞う婚約者の姿が痛々しかった。そんな中、私のこころに様々な思いが交錯した。もしかすると、大変な事になってしまったのかもしれない。いよいよ手術となった。遠く彼方にあった死の恐怖が忍び寄ってくる。手術前の家族のただならぬ雰囲気に、言いようのない死の恐怖が忍び寄ってきた。強風の中、柵のない高層ビルの屋上で、足がすくむような感覚であった。

そういう時だけは、なぜか自分を造られ た神の存在を否定できない。その存在をみとめることだけが、自分を安定させていた様に思われてならない。いよいよ覚悟を決めて、手術へと向かった。
 
手術は無事に終わった。結局、難病ではなく、陥没骨折であった。本当なら、死ぬかあるいは半身不随になるところであったが、私の脳皮(頭蓋骨の内側で脳を包む膜)の厚さが普通の人の倍あったことで、骨折していても守られたのだ、と聞かされた。そう言えば小学生の時、誰もいない体育館の倉庫で私が倒れていたのを発見されたことがあった。私には記憶がないが、そのころからあの頭痛は続いていたのだ。バイクなどの事故で死ぬ前に、もっとも頭痛を激しくさせ、私を病院に追い込んだ何らかの背後の存在を、もはや否定できなくなってい た。 

◇10 神は否定できない、しかし・・・

病院で経験した、身の置き場のないような死の恐怖は、自分を越えた何らかの存在なしではいられなくした。手術の前に医者からこのように言われた「脳は神の領域なので、よほどのことがない限り手術はしないのだよ。」当時の私には、医者が「神」という言葉を使ったことにある種の衝撃を受けた。自分を越えた存在があり、同時に自分という存在がいつかは死を迎える弱い者であることを否定することはできなくなっていた。

しかし、どうしても分からないことがあった。神の存在は認めたとしても、それがどうして子どもの頃から聞かされていたあの聖書の神なのか。イエス・キリストは本当に神なのだろうか。退院し 、また何事もないように生活が戻ってしまったことがむしろ苦しかった。教会では教会学校の手伝いをしていた。場合によっては分級でお話ししなくてはならない。確信のない私が信じることの出来ない聖書を教えなければならない。自分に偽ることが出来ない。かといって、いまさら献身を取り消すのも苦しい。

この献身自体、物心つくかいないかの幼少時の発言に基づいている。自分の人生をそんなあやふやな時期の発言によって決めてしまうのは、耐えられない。ついに私は一つの大きな決断を下した。それは、本当の自分の気持ちに正直になり、それを牧師にぶつけることであった。退院後、数ケ月したある日の夜のことであった。

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◇11 「私、クリスチャンを辞めます」

ついに、その日がきた。高校三年にもうすぐなろうとする春のことであった。ここで進路を全く転換することで、自分が新しい旅に出ることが出来ると思っていた。誰にも言わず、いきなり牧師館の玄関でベルをならし、「先生、大事な話があります。」といって、畳の部屋に入った。松木牧師も何事かと思われたであろう。わたしは、その夜、こう申し上げたのだ。「先生、私は信仰が分からなくなりました。神は信じたとしても、それがイエス・キリストの神であるということが信じられないのに、そのことに献身することは出来ません。献身も、クリスチャンであることも、いっさい取りやめます。信じるとしても、他の宗教をこの目で見て確かめて、本当にどの神が本当の神か確かめてから、もしキリ ストの神であるなら、それから信じます。」それから闘いは始まった。  

今まで、聞きたくても聞けなかった様々な疑問が次々と私の口から出てきた。本当に聖書に記されている奇跡はあったのだろうか。盲人の目が瞬時に開いたり、水がぶどう酒になったり、湖の上を歩いたり、完全に死んだ者が復活したり、などなど。教育を受けたこの大の大人が、一つ一つ本当に信じた上で説教しているのか、問いただしたかったのだ。本質を問えば、うろたえるだろうと不遜にも思っていたのかもしれない。そしてついに問い詰めてしまった。「先生は本当にそんな奇跡を信じて語っているんですか」。だからこそ驚いた。松木牧師は、うろたえず、懇切丁寧に一つ一つの問いに答えてくださった。 しかも、それらの奇跡を信じるという特別な信仰がなければ救われないなどと思わなくていいと述べられたのだ。また、そのような疑問は何も私がはじめて持っているのではなく、今まで多くの人々が悩み、様々な答えを見出してきているのだということを知らされた。

その説明が全て分ったわけではなかった。けれども、疑っている自分の小ささを知らされたような気がした。このような奇跡への問いは、現在も完全に理性的に解決したとはいいがたい。ただ、理性で解決できる領域に閉じ込めることが出来るほど、私という存在を創造された神は小さくない、ということをどこかで感じとったのであろう。疑問を全て出し切ってしまうと、結局小さな弱い自分がぽつんと残ったようだった。

◇12 エマオの途上

 ルカ伝24章に、十字架でイエスが死なれたあと、失意の中、エルサレムを背にしてとぼとぼと歩いていた二人の弟子が登場する。今まで信じていた方が、ローマの軍によって処刑され、しかもその死体すらなくなっている。それまで素朴に信じてきた者にとって、大きな力ある何ものかによってその信仰を奪われたような状況であった。

 私も、教会から背を向けて歩き始めていた。近代化し、世俗化した何らかの力によって、信仰が奪われたような状況であった。人々はイエスのことなど誰も信じないし、自分も信じられない。今まで信じてきたことに裏切られたような失意の中で、近くにおられる誰かに、必死で訴えていたのだ。

 ところが、私の横に「 イエスは生きておられる」(v23)などと言う人がいるのだ。そのことすら不思議にうつる。しかし、今になって思うと、毎晩のように牧師宅に通い、自分の疑問をぶつけていた時、私の横に主がおられることに気が付かなかったのは、ルカ24章16節にある言葉と同じであろう。「目がさえぎられて、イエスを認めることができなかった」(16節)のだ。

 疑問が解けるまでとことん話そうと思っていた。結局、毎晩のように夜12時過ぎまで話しこんでしまった。私の疑問の箇所を一緒に開き、そこから丁寧にその意味を語ってくださった。今考えると、毎晩おそくまで、よくも付き合ってくださったものだと思う。何も分かっていなかった私を包んで聞いてくださり、祈ってくださっていたのだ。

 私も私で、よくもあそこまで反抗的に、かつ率直に本音を言えたものだ。確かに、自分が「献身者」であるというレッテルを剥ぎ取り、疑い深き、ただの存在となると、自由になれる。何を言ってもどんな質問をしても、「ここまで開き直ってしまったのだから、かまわない」と思った。そのような状況は、むしろ私の心を素直にしていた。そして聖書の言葉がこちらが困ってしまうほど自分の心に入ってきてしまう。あのエマオの途上の二人の弟子が、「道々お話になったとき、また聖書を解き明かしてくださったとき、お互いの心が内に燃えたではないか」と振り返っているが、不思議なほど似通っている。きっと、祈られていたのであろう。そして、あの場にもう一人おられたの であろう。復活の主が。

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◇13 何かが変った
 
何日通う中、私の心に変化がおき始めていた。松木先生が、「ちょうど聖書学院で春の聖会があるから、出席したらいいよ」と勧めて下さった。自分が主を信じたあのチャペルにもう一度帰って、一から出直しだと思った。

 説教者が誰であるかは、覚えていない。ただ、かつて信じていたもの、そして裏切られたと思っていたもの、自分が反抗しつつも、結局反抗すればするほど揺らぐことのない大きな存在の前に、自分の小ささを感じていた。自分の人生を決めるのは、自分なのだろうか。ちょっとしたことで、命などなくなるような小さな存在。事実その小ささを死の恐怖とともにどこかで知ってしまった。自分を創造された存在がこの聖書の神であると受け入れることが、あまりにも自然な結論であり、それ以外の選択は色あせていた。

 集会の終わりに、招きがあった。「あなたの人生を主の御用にささげる人はいませんか。」それは、もはや説教者の言葉ではなかった。ずっと私の魂に響きつづけてきた神の言葉であった。前に出て、ひざまずいたとき、戻るべきところに戻ったと実感した。不思議な聖なる存在の前に、今までのことが一つになっていった。

 私の心の変化は、説明がつかない。確かに、聖書にもなぜあのザアカイの心が変化したか、モーセの心が、パウロの心が変化したか、分かるようでわからない。状況はわかるが、納得のゆく内的変化の説明が欠けている。そのことが、今となってはなぜかうれし くも思う。語れないことがある。言葉にならないことがある。それと真剣に向き合うが、どうしても言葉が見つからない。そういう次元の変化が、私の身に起きたことは、私の計画でも、努力でも、願いでも、決意でもない。ただ、神のあわれみなのだとしか言えない。

「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。」(エペソ2:8~9)

 今私は、牧師となって一人ひとりの人生と向き合っている。不思議な出会いがいくつもある。それも、きっと神が導かれているのだと信じている。その人の中でき っと神が御業をなさるに違いないと、信じているからだ。私が変えられた時も、そうだったように。

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◇14 人生旅日誌  献身後①

「今分からずとも、後知るべし」               

  わたしがあなたがたに対していだいている計画は
  わたしが知っている。
  それは災を与えようというのではなく、
  平安を与えようとするものであり、
  あなたがたに将来を与え、
  希望を与えようとするものである。
              (エレミヤ29:11)

 この聖書の言葉の直前に「バビロンで70年が満ちるなら」とある。「70」という年数は、重く響く。たいていは、自分の人生が終わった先のこととなるからだ。私たちは、人生の計画というとき、たいていは、自分が生きている時、一番活躍している時期に焦点を当てて、人生設計をする。このテキストの読者は、神が抱いている「計画」が、自分の人生を越えていることであることを、実感せざるを得ない。

 東京聖書学院の修養生だった二十歳のころ、ある牧師から自分の人生の将来設計について問われた。そして、「聞かれたか聞かれないか分からないような抽象的な祈りではなく、具体的に祈ることが大事ですよ」とも言われた。「それなら」、と紙に20年分の年号をふって、具体的な計画を書き入れていった。学院を卒業する年、日本で3年教会に仕えて、婚約して、留学に出発する年。結婚の年、子ども3人が生まれる年、最初の子どもが小学1年生となる年に博士課程を終えて帰国する年まで、具体的に書き入れた。

 しかし、経済的な計画は、全くめどが立たないので、その将来の設計書を開いて、祈ったものだった。今思えば、実に「厚かましい」計画であり、祈りだったと思う。ところが、驚いたことに、米国での留学生活が終わりに差し掛かり、ほとんど計画通りに進み、長女が4月から小学生となる前の年末に、論文が仕上がり、あとは、論文の口頭試問を残すのみとなったのだ。内容的には、お墨付きを頂いていたので、担当教授からその日付だけを待つというところまで来ていた。6月の卒業式に一時帰国するかは別として、4月からの任命先は内定し、長女の小学校も決まり、祖父母が用意したランドセルも、帰りを待っているという状況だった。教会のお別れ会の日程も決まった頃だった。 担当教授がこう伝えてきた。

「論文が400頁を越えているので、審査員に読んでもらうために、100頁ほど削るように」。

突然の指示に、途方にくれた。その作業には、少なくとも一か月ほどかかるのみならず、口頭試問の日程もずれ込み、4月の任命には、間に合わないことが判明した。引っ越し業者の段ボールも届いたが、何も手につかない。

 日本の教団委員の先生に、何度も連絡し、「私が論文を終わり次第、帰国するので、5月の連休明けに帰国するのは可能か」と問い合わせた。ところが、結局、任地の話はなくなり、4月から牧師となる計画は、流れてしまった。
 それが判明した日に、日本での出産を断念することを考え始めた。しかも、その日は、たまたま保険に入る最終日だったこともあり、滑り込みで保険に入ることができた。しかも、妊娠した子どもも含まれる保険に入ったのだ。しかし、そのことの重大さには、まだ気づいていなかった。日本で出産していたら、三番目の子どもは今、生きているかどうか、分からない。6月に誕生し、その直後、2回にわたる大きな手術を米国で受け、奇跡的に生きて退院できたのだ。そのことが本当に分かったのは、帰国してからだった。有名な大学病院の担当医は、私たちに次のように伝えてきた。
 「あなたのお子さんの心臓を手術した執刀医は、世界一の医者で、今度東京の学会に来るんです。私も行くことになっていまして・・・・。よろしくお伝えください。」

 私たちは耳を疑った。アメリカにいた時、友人であり医者だった人から、「すごい医者なのよ」とは聞いてはいたものの、彼の名前のついたスターンズ法という手術法があり、その医師の手術を受けることが出来ていたことの重大さがやっとわかった。自分が立てた計画の通りだったらと思うと、ぞっとする。しかも、その時期に、私の高慢な思いも砕かれ、私たちの関係にも修復の恵みが与えられた。この紙面では伝えきれないほどの計り知れない恵みが、あの大きな手術の前後に備えられていたのだ。

 それから、しばらくしてから、あのエレミヤの言葉を、今は亡き恩師、松木祐三師から受け取った。それは、先生が胃がんを宣告され、大きな手術を受ける少し前のことだった。私をご自分の部屋に呼んでくださり、ひざ詰めでいろいろな話を伺った時に開いた聖書の言葉だった。

 「今まで、エレミヤのこの言葉は、後半に目が留まったけれど、今回は、前半が響いてきたんだよ。『わたしが知っている』と言われたので、僕はそれで十分だと思うんだ。」自分にはそれがどんなことか、分からない。でも、分からなくても、知っている方がおられるだけで十分だ、と。松木師は、その時、出版のことや、教会堂のことなど、様々な計画を口にされていたが、実現することなく、数週間後に召されていかれた。私は、悲しくて、悔しくて、眠れぬ日々が続くほどだった。しかし、天に帰られた後の10年の間に、出版についても、教会堂についても、不思議な形で次々に実現していった。ほんとうに主の奇跡を見させていただいた。

 「主が計画を知っている」ということは、私たちの側には、知らされていない、ということなのだろう。そうだとしたら、計画を立てるのは、無駄なことなのだろうか。実際に、計画を立てて、努力をしても、その通りにいかないことは多々ある。しかし、そんな時こそ、見上げる方がいるのではないだろうか。計画を立てるからこそ、努力するからこそ、その計画や努力を越えた主の御業が見えてくるからだ。

 私たちの計画や努力は、神の大いなる計画の一部に過ぎない。自分の知っている領域に、主を押し込めることは出来ないのだ。そして、感謝なことに、この方がおられるなら、人間の計画や努力を越えた御業に出くわすことができる。もしそうだとしたら、無駄と思えることにも、喜びをもって仕えることができるようになってくる。今は分からない何かが起きようとしているからだ。

 「今分からずとも、後知るべし。」

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