野の花を見よ
野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
(新約聖書マタイによる福音書 6章28、29節 )
人は厳しい生活にさらされると自然に目をくれるゆとりまで無くします。キリストは当時の貧しい群衆に対し、空の鳥や野の花に注意を促しました。もちろん、風雅な生活をお勧めした訳ではありません。「何を食べようかと命のことで思い煩い、何を着ようかと体のことで思い煩うな」と語られましたように「生活の思い煩い」をいさめるためでした。
ですから、イスラエルの民は現実の生活の厳しさが増すほどにソロモンの栄華を理想としてそんな時代の再来を夢見ていたのです。 山上の垂訓の場所と思われている所には今日でも野の花が咲き乱れております。キリストは多分その花を指しながら、あなた方が日々に夢見ているあのソロモンでさえこの花一つほどにも着飾ってはいなかった、と言われたのです。キリストのこの意表をつくような教えはいったい何を意味していたのでしょう。富の象徴とまで見なされたソロモン王の栄華ははかなくも彼一代で終わりました。そして、次の代には国が南北に分裂し、やがてアッスリアやバビロンの相次ぐ侵略を受けて滅びてしまいました。ことの真価を問う一つのバロメーターにどれだけ長持ちするか、或いは長続きするかがありますが、まさにソロモンの栄華は華やかながら短い命でした。
一方、野の花はどうでしょう。ときに刈られて炉で燃やされ、また冬枯れの季節には跡形もなく消えてしまいますが、暖かな春の訪れと共に再び芽吹き、人の目を楽しませてくれます。それは名もない小さな野の花であっても神さまが命を与えられておるからです。
自然を通して神さまが育まれるままに委ねきっている野の花や空の鳥から、わたしたち人間も「神への信頼」を学びなさいとキリストは教えられたのです。