求めよ、さらば与えられん

求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。

(新約聖書・マタイによる福音書
77節)

 イメージ・トレーニングという言葉が一時はやりました。一種の自己暗示的な精神鍛錬の類かと思われます。自分の人生の可能性を最大限に発揮しようとする心理的効果
がねらいのようです。自己変革を望み、積極的な生き方を志向することは良いことだと思いますが、それが、トレーニングで可能かどうかは別 問題かも知れません。
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人が何かを期待し、強い願望を持つことはその達成のために意識的にも無意識的にもかなりの努力が払われる筈です。「期待」や「願望」自体がその目標を達成させるのではなく、それに向かう努力が達成に導くのでしょう。これを別 の諺で言い換えますと「天は自ら助くる者を助く」となるでしょうか。しかし、「期待」や「願望」のないところからは何ごとも始まりません。
 冒頭のキリストの言葉は山上の垂訓の中で語られた有名な御言葉の一つです。これを前述したイメージ・トレーニングの方法論として援用される方がおりますが、本質的には人間の訴えを叶えてくださる神さまの明確な姿が想定されている、純粋に宗教的な奨励なのです。さらにもう一つ、この奨励の素晴らしさは「検証済みの奨励」であることです。愛なるキリストの最大の願望は罪に失われた人間を迎えることでした。命をかけて求め、捜し、叩いた結果、見いだされた者たちが今クリスチャンとして生かされております。
 ユダヤ人の宗教哲学者であるアブラハム・ヘッシェルの著に「人間を探し求める神」という本があります。この題名こそ、キリスト教の神さまの本質的姿を言い表しております。宗教と言えば人間の願望の投影と理解する知識人が少なからずおりますが、聖書に啓示されている神さまは「人間が求める」神ではなく、愛の故に「人間をひたすら探し求める」神さまなのです。この神さまにわたしたちは求められ、捜されておることを覚えたいものです。